予習シリーズ 小5社会(下)第6回「鎌倉時代」親子で押さえておきたいポイントまとめ

予習シリーズ 小5社会(下)第6回「鎌倉時代」親子で押さえておきたいポイントまとめ

小5社会(下)の第6回は「鎌倉時代」です。第4回「平安時代」で藤原氏 → 院政 → 平氏と実権が移る流れを学びました。今回はその続き、「政治の主役が武士になり、その武士の政権がどう育ち、どう壊れたか」を追う回です。

この回の最大のポイントは、鎌倉幕府が「朝廷と並ぶ2つ目の政府」だったことです。全国には朝廷が任命した国司がいて、荘園の持ち主は貴族や寺社のまま——つまり日本は朝廷と幕府によって二重に支配されていました。だからこそ承久の乱が起き、幕府が朝廷を監視する必要が出てきます。

親子で取り組むときは、「3つのブロック」で覚えるのがおすすめです。①成立(1180〜1192)→ ②執権政治の確立(1221〜1232)→ ③元寇と衰退(1274〜1333)。この3ブロックと、その間をつなぐ年号を押さえれば、長い鎌倉時代も一本の線になります。


1 今回の単元、6つの柱

まず全体像をつかみましょう。第6回の出題は、大きく次の6分野に分かれます。

分野 おさえる内容 最優先チェック
幕府の成立 源平の戦い、守護・地頭、征夷大将軍 1185年 守護・地頭/1192年 征夷大将軍
幕府のしくみ 将軍・執権・侍所・政所・問注所・六波羅探題 政権は「朝廷+幕府」の二重支配
御恩と奉公 封建制度、武士の稽古と生活 御恩=領地を守る/奉公=命がけで戦う
執権政治 北条氏、承久の乱、御成敗式目 1221年 承久の乱/1232年 御成敗式目
元寇と衰退 文永の役・弘安の役、徳政令、幕府滅亡 1274年 文永/1281年 弘安/1297年 徳政令
仏教・文化 鎌倉新仏教6人、東大寺南大門、金剛力士像、文学 栄西=臨済宗/道元=曹洞宗

ポイント:この回は「人物と年号がセット」で問われる単元です。まずこの表の6分野を1行ずつ声に出して、「誰の話か」を確認してみてください。


2 源氏と平氏の戦い(1180〜1185)

頼朝の出発点

源頼朝は、父の義朝が平治の乱で敗れたため、伊豆へ流されました。

その後、北条氏の力をかりて1180年に伊豆で兵をあげ、鎌倉を本拠地にして、関東の支配をかためました。

年 戦い 結果
1180年 石橋山の戦い 源頼朝が平氏に敗れる
1180年 富士川の戦い 源頼朝が平氏に勝利
1183年 倶利伽羅峠の戦い(くりからとうげ) 源義仲(みなもとのよしなか)が平氏に勝利
1184年 一ノ谷の戦い(いちのたに) 源義経(みなもとのよしつね)が平氏に勝利
1185年 屋島の戦い(やしま) 源義経が平氏に勝利
1185年 壇ノ浦の戦い(だんのうら) 源義経が平氏に勝利 → 平氏滅亡

頼朝の弟の源義経らは、各地で平氏を破り、1185年の壇ノ浦の戦いで平氏を滅ぼしました。

義経のその後

義経は平氏を討った英雄ですが、頼朝と関係が悪化し、最後は平泉で自害します。

ポイント:「石橋山で負けて、富士川で勝つ」——同じ1180年に敗北と勝利の両方があるのがポイントです。源義仲(倶利伽羅峠)と源義経(一ノ谷・屋島・壇ノ浦)は別人なので、名前を混同しないように。

注意:壇ノ浦の戦いは「1185年」。鎌倉幕府の成立は「1192年」——7年の差があります。「平氏を滅ぼした年」と「幕府を開いた年」は別と意識しましょう。


3 守護と地頭、そして鎌倉幕府の成立

守護と地頭(1185年)

1185年、頼朝は、京都で朝廷から位を得た義経をとらえることを名目に、全国に守護と地頭を置くことを朝廷に認めさせました。

役職 置かれた場所 はたらき
守護(しゅご) 国ごと(各国に1人) 軍事・警察の役目。御家人の統率、治安維持
地頭(じとう) 荘園や公領 土地の管理、年貢の取り立て、警察

守護と地頭の設置を通じて、頼朝はその支配を東国から西国にも広げました。

征夷大将軍(1192年)

1192年、頼朝は朝廷から征夷大将軍に任命されました。

この役職は頼朝の子らに受けつがれていき、征夷大将軍は、政権をとった武士にあたえられる役職となりました。

12世紀末に鎌倉にたてられた武士の政権を、鎌倉幕府といいます。

注意:「征夷大将軍」はもともと東北平定のために置かれた役職です(桓武天皇が坂上田村麻呂を任命したときのもの)。それが「武士のトップの称号」に変わっていきました。

ポイント:1185年(守護・地頭)と1192年(征夷大将軍)——どちらも「幕府の成立」に関わる年ですが、内容がちがいます。「1185=支配のしくみをつくった年/1192=トップの称号を得た年」と区別しましょう。


4 鎌倉幕府のしくみ

中央の機関

機関 はたらき
将軍 幕府の最高権力者。御家人を統率する名目上のトップ
執権(しっけん) 将軍を補佐し、政治の実権を握る
侍所(さむらいどころ) 御家人の統率、軍事・警察
政所(まんどころ) 行政・財政・文書
問注所(もんじゅうしょ) 裁判・訴訟を扱う

地方の機関

機関・役職 はたらき
守護 各国の軍事・警察。御家人の統率、治安維持
地頭 荘園・公領の管理、年貢の取り立て、警察
六波羅探題(ろくはらたんだい) 朝廷の監視と京都の警備、西国の軍事・裁判

二重の支配

その後も、諸国には朝廷が任命した国司がいるうえ、荘園の持ち主は貴族や寺社のままでした。

全国は、朝廷と幕府によって、2重に支配されることになりました。

ポイント:「幕府が全国を完全に支配したわけではない」——ここが鎌倉時代の理解のカギです。朝廷・国司・荘園主が残っていたからこそ、承久の乱や荘園をめぐる裁判が必要になりました。

注意:「侍所=軍事」「政所=行政」「問注所=裁判」。3つの機関の役割は、漢字1字(武・政・問)で区別すると覚えやすいです。


5 御恩と奉公(封建制度)

ご恩と奉公の関係

将軍は御家人(家来)に、領地をあたえたり、保護したりします。これを「御恩」といいます。

御家人は将軍のために、命がけで戦ったり、京都の警備をしたりします。これを「奉公」といいます。

立場 すること
将軍(鎌倉殿) 御家人の領地を認めて保護する(御恩)
御家人 命がけで戦う・京都の警備をする(奉公)

このように、領地をなかだちとした主人と家来の関係を「封建制度」といいます。

将軍は「鎌倉殿」ともよばれ、戦いが起これば御家人は「いざ鎌倉!」とかけつけました。

ポイント:「御恩=与える側(将軍)」「奉公=仕える側(御家人)」。どちらがどちらかを、主語をはっきりさせて覚えましょう。

注意:御恩の中心は「新たに領地をあたえること」です。だからこそ、元寇で新しい領地が得られなかったときに、御恩が出せなくなって幕府がゆらぐ——この伏線が後半につながります。

武士の稽古と生活

項目 内容
流鏑馬(やぶさめ) 馬で全速力で走りながら的を射る弓の技
犬追物(いぬおうもの) 広い馬場に放たれた犬を的として、馬上から矢で射る競技

鎌倉時代の武士は、普段は農業を営んで暮らしていました。

  • 主な収入:年貢や自分の土地からの収入
  • 暮らし:武士の館に住み、屋敷の周りに田畑や馬場をもつ
  • 家族:家を中心に一族が団結し、女性も土地の経営を行った

ポイント:「武士=戦うだけの人ではない」。普段は農業を営む経営者でした。女性も土地の経営を行っていたという点は、近年よく問われます。


6 北条氏の執権政治(確立編)

源氏の将軍3代で終わる

源頼朝の死後、頼朝の子である頼家が2代将軍、3代は弟の実朝がなるが、いずれも命を奪われ、源氏の血筋は途絶えます。

源氏の将軍が3代、約30年で絶えると、北条氏は名ばかりの将軍を京都からむかえました。

代 将軍
初代 源頼朝
2代 源頼家(よりいえ)
3代 源実朝(さねとも)

頼朝の妻である北条政子(尼将軍)と、その父で初代執権の北条時政が実権をにぎりました。

そして北条氏は、将軍をたすける執権として、幕府の政治を動かしていきました。この政治を執権政治といいます。

注意:「源氏の将軍は3代で終わるが、幕府は続く」。将軍と執権が別になるのがポイントです。「将軍は名ばかり、実権は執権(北条氏)」と覚えましょう。

ポイント:北条政子=頼朝の妻(尼将軍)/北条時政=初代執権/北条義時=2代執権/北条泰時=3代執権/北条時宗=8代執権/北条高時=14代執権。数字とセットで整理しましょう。

承久の乱(1221年)

源氏の血が途絶え、天皇中心の政治を取り戻そうと画策する動きが出ます。

後鳥羽上皇は、幕府の実権をにぎる北条義時を討てと命じました(院宣)。これを承久の乱といいます。

項目 内容
年 1221年(承久3年)
戦った人 北条政子・北条義時 対 後鳥羽上皇
結果 幕府軍が勝利。後鳥羽上皇は隠岐に流される

後鳥羽上皇は義時を討つ院宣(朝廷の命令)を出しましたが、関東の御家人は動揺しました(天皇に逆らって良いのか?)。

そこで北条政子が御家人を集めて演説を行い、御家人は奮起して幕府軍勢が勝利しました。

政子の演説(要旨):「皆さん、今こそ頼朝公のご恩を思い出してください。あなたたちが今日あるのは、頼朝公のおかげです。その恩を忘れ、上皇の命だからといって逆らわずにいるのですか。幕府の恩に報いるため、鎌倉のために戦ってください。」

乱のあとの処理

幕府は、上皇方についた公家や武士の領地を取りあげ、これらを味方の武士に新たに分けあたえました。

また、京都に六波羅探題を置いて、朝廷の監視や西国の御家人の取りしまりにあたらせました。

こうして、幕府の支配は全国におよぶようになりました。

ポイント:「承久の乱の勝利で、幕府の全国支配が確立した」。この一言が、執権政治の確立編の結論です。

注意:「後鳥羽上皇は隠岐に流された」。島根県の隠岐です。「承久の乱=1221年=隠岐」とセットで。

御成敗式目(1232年)

承久の乱の後、土地をめぐって、地頭と荘園主、地頭と御家人の争いが増えました。

そこで執権の北条泰時は、武家社会のしきたりをもとに、1232(貞永元)年に御成敗式目を制定しました。

項目 内容
制定者 北条泰時(3代執権)
年 1232年(貞永元年)
別名 貞永式目(年号から)
内容 争いを公平に裁く統一基準。武士が守るべき法
意義 初めての武家法典。法治政治の始まりで、後の武家法の基礎

朝廷の法律(律令)は武士の実情(封建制度・領地など)に合いませんでした。 御成敗式目は政治や裁判のよりどころとなり、後の武家法の手本としては最初のものになりました。

ポイント:「初めての武家法典=御成敗式目」。「1232年・北条泰時・貞永式目」の3点セットで覚えましょう。

注意:御成敗式目は「武士のための法律」で、公家や寺社の領地まで定めるものではありませんでした。


7 元寇(モンゴルの襲来)

モンゴル帝国の拡大

年 できごと
1206年 チンギス=ハンがモンゴル帝国をおこす
1271年 フビライ=ハンが国号を元とし、中国本土を支配
1279年 宋が滅びる

チンギス=ハンとその子孫は領土を広げ、ユーラシア大陸の東西にまたがる大国をきずきました。

フビライ=ハンは、日本に朝貢を要求しましたが、執権の北条時宗は拒否しました。

2度の襲来

年 名称 ようす
1274年 文永の役(ぶんえいのえき) 元軍は一旦撤退。日本は次に備えて石塁などの防衛対策を進めた
1281年 弘安の役(こうあんのえき) 元が約14万の大軍で九州北部に攻めてくる。石塁などで防衛し、暴風雨が発生して元軍は撤退

元軍は間もなく引きあげましたが、日本の武士は元軍の集団戦法や火薬を使った武器に苦戦しました。

フビライ=ハンが亡くなり、3度目はありませんでした。

元の戦い方の特徴

特徴 内容
集団戦法 当時の日本は名乗りをあげて正々堂々と一騎ずつ戦う習慣があった
てつはう(鉄砲) 火薬を用いた武器

『蒙古襲来絵詞』(もうこしゅうらいえことば)は、竹崎季長(すけなが)が絵師に描かせたもので、恩賞をもらうために描かれたともいわれています。

ポイント:「文永の役=1274年・撤退」「弘安の役=1281年・石塁と暴風雨」。弘安の役は約14万の大軍だったこともセットで。

注意:「2度とも元軍は上陸・撤退」で、日本が攻め込んだわけではありません。「神風が吹いて勝った」という言い方もありますが、実際は石塁など防衛の工夫も大きかった点を押さえましょう。

元寇のあとの御家人の困窮

元との戦いでは新しい土地を得たわけではないので、幕府は命がけで戦った御家人に十分な恩賞をあたえられませんでした。

恩賞とは、戦いの功績に対してあたえられる褒美のことです。これにより御家人の生活は苦しくなり、幕府への不満が高まりました。

御家人は借金で苦労し、封建制度も弱体化しました。

ポイント:「元寇に勝ったのに、御家人は苦しくなった」——勝利が衰退の始まりという逆転が、この単元のいちばんおもしろいところです。理由は「新しい領地がなかったから」。

注意:御恩の中心は「領地」でした。領地が増えない=御恩を出せない=御家人が離れる——封建制度のしくみが裏目に出たわけです。


8 幕府の衰退と滅亡

永仁の徳政令(1297年)

御家人の借金が問題になると、幕府は1297年に永仁の徳政令を出しました。

「徳政令」とは、借金を返さなくてもいいよ、という命令です。

項目 内容
年 1297年
内容 御家人の借金を帳消しにする
結果 一時的に混乱。効果は薄く、幕府の信用は失墜

徳政令は一時的に混乱を招きましたが、効果は薄く、かえって幕府への信用は失われました。

注意:「徳政令は失敗した」。御家人を助けるための政策が、かえって幕府の信用を落とした——政策の意図と結果が逆になった例として覚えましょう。

幕府の滅亡(1333年)

年 できごと
1331年 後醍醐天皇が討幕計画 → 失敗し隠岐に流される
1333年 足利尊氏・新田義貞が挙兵。北条高時は自害し、鎌倉幕府は滅亡
1334年 後醍醐天皇が建武の新政を行う

14代執権の北条高時のときに、鎌倉幕府は滅びました。

ポイント:「1333年=鎌倉幕府滅亡」「1334年=建武の新政」。1年ちがいなので、順番を確認しましょう。後醍醐天皇は2回隠岐に流されています(1331年の討幕失敗時と建武の新政の後)。


9 鎌倉時代の仏教

なぜ新しい仏教が広まったのか

平安時代の末から続く戦乱や災害などで不安を強めていた人々は、心のよりどころを仏教に求めました。

このような願いから、新しい仏教の教えが生まれました。これらの仏教はわかりやすいうえに実行しやすかったので、武士や民衆の間に次第に広まっていきました。

鎌倉仏教の3つの特徴

  1. 貴族だけでなく武士や庶民にも広まった、実践的で平等な信仰
  2. 難しい修行よりも、念仏・題目・坐禅など簡単な行いで救われる教え
  3. 社会の不安の中で、「誰でも救われる」救済の仏教として発展

新仏教6人の宗祖

念仏系(浄土教)

開祖 宗派 寺院 教え
法然(ほうねん) 浄土宗 知恩院(京都) 南無阿弥陀仏を唱えれば極楽往生できる
親鸞(しんらん) 浄土真宗(一向宗) 本願寺(京都) 阿弥陀仏を信じれば極楽往生できる。悪人こそ救われる
一遍(いっぺん) 時宗 清浄光寺(神奈川) 踊りながら念仏を唱えれば救われる(踊り念仏)

題目系

開祖 宗派 寺院 教え
日蓮(にちれん) 日蓮宗(法華宗) 久遠寺(山梨) 南無妙法蓮華経を唱えれば救われる

禅宗系

開祖 宗派 寺院 教え
栄西(ようさい) 臨済宗 建仁寺(京都) 坐禅によって悟りを開く
道元(どうげん) 曹洞宗 永平寺(福井) ひたすら座禅する

ポイント:「念仏・題目・坐禅」の3グループで整理しましょう。念仏系3人(法然・親鸞・一遍)/題目系1人(日蓮)/禅宗系2人(栄西・道元)——3・1・2の人数で覚えると混ざりません。

注意:「栄西=臨済宗=建仁寺(京都)」「道元=曹洞宗=永平寺(福井)」。禅宗の2人は名前と宗派が入れかわりやすいので、「栄西は臨済、道元は曹洞」と声に出しましょう。

ポイント:浄土真宗は「一向宗」、日蓮宗は「法華宗」ともよばれます。別名で出題されることがあるので、セットで覚えましょう。


10 農業と商業の発達

農業の発達

項目 内容
肥料の活用 草や木の灰を肥料として利用し始めた
耕作の効率 牛馬で田畑を耕したり運搬に利用。西日本ではおもに牛、東日本ではおもに馬
耕作回数 稲を刈り取った後に麦の耕作をする二毛作を始めた(西日本でおもに広がった)

鎌倉時代の農民は、荘園領主と地頭による2重の税の負担に苦しめられました。 このため、農民の中には、地頭の乱暴を集団で訴えたり、荘園からいっせいに逃げたりする者もいました。

ポイント:「二毛作=米+麦」「西日本で広がった」。牛は西、馬は東という方角と家畜の対応も覚えどころです。

注意:農業が発達しても、農民の負担は重くなった——「生産が増えた=暮らしが楽になった」ではないところがポイントです。

商業の発達

項目 内容
売る場所 定期市。交通の便が良い場所に、多くは月に3回開かれた
保管・運送 問(問丸)。商品を保管したり運んだりする運送業者
組織 座。同じ商品を売るなど同業者が集まって組合を作った

座をつくることで、値段を下げる競争などが不要になったり、お互いに協力できたりしましたが、一方で営業を独占しようとする者もいました。

取り引きには、中国から輸入された銅銭(宋銭)などが使われました。

ポイント:「定期市=月3回」「問=運送・保管」「座=同業者の組合」。3つの言葉の役割を、ひとことで説明できるようにしましょう。

注意:「問」は人を指すこともあります(問丸)。「座」は組織——人か組織かで区別すると覚えやすいです。


11 鎌倉文化

鎌倉文化の特色

武士や庶民によって、新しい文化がつくられました。

  • 武士の質実剛健で力強い精神を反映した文化
  • 現実を重んじる素朴で精神的な文化

建築

建造物 場所 ポイント
東大寺南大門(とうだいじなんだいもん) 奈良市 力強い梁と柱の構造。高さ約26m。宋から伝えられた建築様式
円覚寺舎利殿(えんがくじしゃりでん) 鎌倉市 禅宗様式の代表建築

彫刻

作品 作者 ポイント
金剛力士像(こんごうりきしぞう) 運慶(うんけい)・快慶(かいけい) 東大寺南大門にある。力強く写実的

文学

ジャンル 作品 作者・特徴
和歌 新古今和歌集(しんこくんわかしゅう) 後鳥羽上皇が命令し、藤原定家(ふじわらのさだいえ)らが編纂
随筆 方丈記(ほうじょうき) 鴨長明(かものちょうめい)
随筆 徒然草(つれづれぐさ) 兼好法師(けんこうほうし)
軍記 平家物語(へいけものがたり) 琵琶法師(びわほうし)によって語り伝えられた

軍記物とは、戦いを題材とした物語です。『平家物語』は、武士の合戦を題材とした物語で、琵琶法師によって語り伝えられました。

ポイント:「方丈記=鴨長明」「徒然草=兼好法師」——随筆が2つあり、作者が入れかわりやすいので要注意。「方(ほう)→鴨(かも)」と頭文字で結びつけると便利です。

注意:新古今和歌集は「後鳥羽上皇の命令」で編纂されました。承久の乱で隠岐に流された後鳥羽上皇と同じ人物です。「和歌を命じた人=承久の乱の人」とつなげて覚えましょう。


12 鎌倉の地形と切通し

なぜ鎌倉だったのか

鎌倉に幕府が開かれたのは、源氏にゆかりのある地であったことにくわえ、三方を山でかこまれ、一方が海に面した、守りやすい地形であったからです。

切通し(きりどおし)

鎌倉のまわりには、山をけずってつくった切通しとよばれる道が7つありました。

道が馬が1頭ずつしか通れないほどせまい場所があるのは、敵に攻められにくくするためです。 このせまい道ならば、敵が鎌倉におしよせても、大軍で一気に攻めこむことができません。

『吾妻鏡』などの鎌倉幕府の記録には、鎌倉を攻めた敵の軍は海側から鎌倉に侵入した、とえがかれています。

ポイント:「三方を山、一方を海」——守りの地形が鎌倉選びの理由。切通しが7つあることもセットで押さえましょう。

注意:「せまい道=敵を防ぐため」。「不便だから」ではありません。理由を問われるところです。


13 年表で整理(並べ替え問題の対策)

この単元は「古い順に並べよ」の問題が本当によく出ます。次の年表を指で追いながら確認しましょう。

年 できごと
1180年 源頼朝が伊豆で挙兵/石橋山の戦い・富士川の戦い
1183年 倶利伽羅峠の戦い(源義仲)
1184年 一ノ谷の戦い(源義経)
1185年 屋島の戦い・壇ノ浦の戦いで平氏滅亡/全国に守護・地頭を設置
1192年 源頼朝が征夷大将軍となり、鎌倉幕府を開く
1205年 新古今和歌集
1206年 チンギス=ハンがモンゴル帝国をおこす
1221年 承久の乱/六波羅探題を設置
1232年 御成敗式目(北条泰時)
1271年 フビライ=ハンが国号を元とする
1274年 文永の役
1279年 宋が滅びる
1281年 弘安の役
1297年 永仁の徳政令
1333年 鎌倉幕府滅亡
1334年 後醍醐天皇が建武の新政を行う

並べ替えのコツ

「1185 → 1192 → 1221 → 1232 → 1274 → 1281 → 1297 → 1333」の8つを、声に出して唱えましょう。

  • 承久の乱(1221)と御成敗式目(1232)は11年差で、セットです。
  • 文永の役(1274)と弘安の役(1281)は7年差。「文永 → 弘安」の順です。
  • 徳政令(1297)は元寇の後——「負けたわけではないのに、困った」という流れ。

ポイント:「平氏滅亡(1185)→ 幕府成立(1192)」の7年差、「文永 → 弘安」の7年差——7年が2回出てきます。リズムで覚えると忘れません。

注意:チンギス=ハン(1206)は文永の役より68年も前です。モンゴル帝国ができてから、ずっと後に日本へ来た——世界史のスケールを感じましょう。


14 本体の要点チェック

予習シリーズ本体の要点を、確認問題の形で並べます。答えを右手でかくして挑戦してみてください。

問1 1185年に、源氏が平氏を滅ぼした戦いの名を答えなさい。
→ 答え:壇ノ浦の戦いです。

問2 問1の戦いの後、源義経が国ごとに置いて、軍事・警察などにあたらせた役職を何といいますか。
→ 答え:守護です(荘園などに置かれたのは地頭)。

問3 1192年、源頼朝が朝廷から任命された役職の名を答えなさい。
→ 答え:征夷大将軍です。

問4 将軍と主従関係を結んだ武士、将軍が領地を保護すること、武士が命がけで戦うこと、領地をなかだちとした関係を、それぞれ何といいますか。
→ 答え:御家人/御恩/奉公/封建制度です。

問5 源頼朝の死後、政治の実権をにぎった一族の名と、その一族が代々将軍をたすけた役職の名を答えなさい。
→ 答え:北条氏と執権です。

問6 1221年に、幕府から政治の実権をうばおうと後鳥羽上皇が起こした戦いの名を答えなさい。
→ 答え:承久の乱です(後鳥羽上皇は隠岐に流されました)。

問7 元が2度にわたって日本に攻めてきたときの戦いの名を、起こった順に答えなさい。また、そのとき執権についていた人物の名を答えなさい。
→ 答え:文永の役(1274年)→ 弘安の役(1281年)。執権は北条時宗(8代執権)です。

問8 鎌倉時代などに、商工業者がつくった同業者の組合を何といいますか。
→ 答え:座です。

問9 鎌倉時代の仏教について。①法然が開いた宗派 ②親鸞が開いた宗派 ③栄西が宋から伝え、幕府の保護を受けた禅宗の宗派を答えなさい。
→ 答え:①浄土宗 ②浄土真宗(一向宗) ③臨済宗です。

問10 武士や庶民によってつくられた、東大寺南大門にある彫刻の名を答えなさい。
→ 答え:金剛力士像です(運慶・快慶の作)。


15 親子で最終チェック!10問クイズ

Q1. 1180年から1185年にかけての源氏と平氏の戦いを、年と場所の名をあげて順に答えなさい。また、平氏が滅びた戦いの名を答えなさい。

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1180年 石橋山の戦い(頼朝が敗れる)→ 1180年 富士川の戦い(頼朝が勝利)→ 1183年 倶利伽羅峠の戦い(源義仲)→ 1184年 一ノ谷の戦い(源義経)→ 1185年 屋島の戦い(義経)→ 1185年 壇ノ浦の戦い(義経)です。平氏が滅びたのは壇ノ浦の戦いです。義経はその後頼朝と関係が悪化し、平泉で自害しました。

Q2. 1185年に頼朝が全国に置いた2つの役職の名と、それぞれの役割を答えなさい。また、1192年に任命された役職の名を答えなさい。

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守護(国ごとに置かれ、軍事・警察を担当)と地頭(荘園などに置かれ、土地の管理・年貢の取り立て・警察を担当)です。1192年に任命されたのは征夷大将軍です。守護・地頭の設置を通じて、頼朝は支配を東国から西国へ広げました。

Q3. 鎌倉幕府の中央の機関を3つあげ、それぞれの役割を答えなさい。また、「将軍」と「執権」のちがいを説明しなさい。

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侍所(御家人の統率・軍事・警察)/政所(行政・財政・文書)/問注所(裁判・訴訟)です。将軍は御家人を統率する名目上のトップで、執権は将軍を補佐し、政治の実権を握る役職です。源氏の将軍が3代で絶えてからは、執権を北条氏が独占しました。

Q4. 御恩と奉公について、それぞれどちらがするものかを明らかにして説明しなさい。また、この関係を何といいますか。

答えを見る

御恩は将軍が御家人に対して行うもので、領地をあたえたり保護したりすることです。奉公は御家人が将軍に対して行うもので、命がけで戦ったり京都の警備をしたりすることです。この領地をなかだちとした主人と家来の関係を封建制度といいます。戦いが起これば御家人は「いざ鎌倉!」とかけつけました。

Q5. 1221年の承久の乱について、①だれとだれが戦ったか ②結果どうなったか ③乱の後、幕府が京都に置いた機関の名を答えなさい。

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①北条政子・北条義時(幕府)対 後鳥羽上皇(朝廷)です。②幕府軍が勝利し、後鳥羽上皇は隠岐に流されました。上皇方についた公家や武士の領地は取りあげられ、味方の武士に分けあたえられました。③六波羅探題を置き、朝廷の監視と西国の御家人の取りしまりにあたらせました。これにより幕府の支配は全国におよびました。

Q6. 御成敗式目について、①制定した人物と執権の代 ②制定年 ③別名 ④意義を答えなさい。

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①北条泰時(3代執権) ②1232年(貞永元年) ③貞永式目 ④初めての武家法典で、争いを公平に裁く統一基準。法治政治の始まりで、後の武家法の基礎となりました。朝廷の法律(律令)は武士の実情に合わなかったため、武士が守るべき法としてつくられました。

Q7. 元寇について、①2度の戦いの名と年 ②執権の名 ③元軍の戦い方の特徴2つ ④戦後、御家人が苦しくなった理由を答えなさい。

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①文永の役(1274年)・弘安の役(1281年) ②北条時宗(8代執権) ③集団戦法(日本は一騎ずつの戦いに慣れていた)と、てつはうなどの火薬を用いた武器 ④新しい土地が得られなかったため、十分な恩賞をあたえられなかったからです。弘安の役では石塁などで防衛し、暴風雨で元軍が撤退しました(約14万の大軍)。

Q8. 永仁の徳政令は何年、どのような内容で、結果どうなりましたか。また、鎌倉幕府が滅亡した年と、そのときの執権の名を答えなさい。

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1297年に出され、御家人の借金を返さなくてもよいという内容でした。一時的に混乱を招いたものの効果は薄く、かえって幕府の信用は失墜しました。幕府は1333年に滅亡し、14代執権の北条高時が自害しました(足利尊氏・新田義貞が挙兵)。1334年には後醍醐天皇が建武の新政を行いました。

Q9. 鎌倉新仏教の6人について、開祖・宗派・教えをセットで答えなさい。

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法然=浄土宗=南無阿弥陀仏を唱えれば極楽往生できる/親鸞=浄土真宗(一向宗)=阿弥陀仏を信じれば往生でき、悪人こそ救われる/一遍=時宗=踊りながら念仏を唱えれば救われる(踊り念仏)/日蓮=日蓮宗(法華宗)=南無妙法蓮華経を唱えれば救われる/栄西=臨済宗=坐禅によって悟りを開く/道元=曹洞宗=ひたすら座禅するです。念仏系3人・題目系1人・禅宗系2人と人数で整理しましょう。

Q10. 鎌倉文化の代表作を答えなさい。①東大寺南大門の彫刻とその作者 ②禅宗様式の代表建築 ③後鳥羽上皇が命令してつくられた和歌集と編纂者 ④鴨長明と兼好法師の随筆 ⑤琵琶法師が語り伝えた軍記物

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①金剛力士像=運慶・快慶 ②円覚寺舎利殿(鎌倉市) ③新古今和歌集=藤原定家ら ④方丈記=鴨長明/徒然草=兼好法師 ⑤平家物語です。東大寺南大門は高さ約26mで、宋から伝えられた建築様式です。鎌倉文化は武士の質実剛健で力強い精神を反映したのが特徴です。


16 まとめ:取り組み方のコツ

1. 「3つのブロック」で時代を分ける ①成立(1180挙兵 → 1185守護・地頭 → 1192征夷大将軍)/②執権政治の確立(1221承久の乱 → 1232御成敗式目)/③元寇と衰退(1274文永 → 1281弘安 → 1297徳政令 → 1333滅亡)。この3ブロックに年号をぶら下げると、長い時代が整理できます。

2. 「御恩の中心は領地」を軸にする 御恩=領地を与えること。だから元寇で領地が増えなかったときに御恩が出せず、御家人が離れた——封建制度のしくみが、衰退の原因そのものになりました。この因果1本で、後半が全部つながります。

3. 仏教は「念仏・題目・坐禅」の3グループで 念仏系3人(法然・親鸞・一遍)/題目系1人(日蓮)/禅宗系2人(栄西・道元)。人数で覚えると、6人を混同しません。

4. 年号は「7年差」のリズムで 1185→1192(7年)、1274→1281(7年)。7年が2回出てくるので、リズムで唱えると忘れません。

最後に:鎌倉時代は、「武士が初めて政治の主役になった時代」です。ただし朝廷も荘園も残っていたので、二重支配という不安定な構造から始まりました。承久の乱で朝廷をおさえ、御成敗式目でルールをつくり、元寇を耐え抜いた——それでも御恩を出せなくなって滅びた。「勝ったのに滅びた」という結末まで含めて、この時代の物語です。テスト前は、この記事の年表とクイズ10問を親子で回してみてください。本日の伴走、おつかれさまでした!

 

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